日本有数の電源地帯とあえて向き合う
木曽川沿いに延びる国道19号線を走っていた時です。桃山水力発電所の建物が目にとまりました。よくある発電所だったら、気にせずに通り過ぎていたでしょう。しかしその建物は、ヨーロッパにあるヴィラを彷彿とさせる洒落た造りだったのです。かつて江戸と京都を結んでいた中山道で、このような洋風建築物との出会いは意外でした。そのとき不意に、数年前のちょっとした出来事が脳裏に蘇ってきます。
生まれ故郷松本の市立図書館から講演の依頼があり、出版したばかりの写真集「Shinshu(信州)」について語りました。終了後のサイン会で、会場にいらしていた木曽谷郷土史家の楯英雄氏から声が掛かります。
「吉村さん、いつか木曽地区にもカメラを向けてください。魅力的な被写体がたくさんありますから」
先生は自ら編纂した小冊子を私に手渡しました。後日目を通してみたら、そこには木曽の山、川、渓谷、滝、巨木などの自然はからはじまり、宿場、寺、神社、地蔵、碑、発電所、資料館、祭りなど、木曽の歴史や文化がふんだんに紹介されていたのです。
〈確か楯先生からもらった資料の中に、発電所のことが書かれていたような気がする……〉
東京に戻ると、すぐにその小雑誌を引っ張り出してみました。案の定、桃山水力発電所の記載があり、名前の由来、建設年月日などを知ることが出来ました。
私は改めてその小冊子のページを捲ってみました。すると「何かテーマを絞って木曽を追い掛けてみるのも面白いかもしれない……」と考えるようになっていったのです。楯先生にお会いてみようと思い立ち、実家に帰省した折に塩尻市内のご自宅を訪ねました。部屋と廊下には本が天井まで積み上がっており、いつか文芸誌で見たことがある「作家の仕事場」状態です。先生は私の訪問を喜んでくれ、すぐに木曽に関する何冊かの本や資料を引っ張り出してくれました。
「木曽を知るには、現地を訪れてみるのが一番です。私がご案内しますので春になったら行きましょう」
先生と一緒に木曽地区を旅することになりました。まずは知り合いの木地師、櫛職人の工房を訪ねます。かつて森林鉄道で使われていた鉄橋、伝統的な木造住宅が建ち並ぶ集落も訪れました。その日は王滝村の三浦旅館に宿泊。翌日は、ガイドの資格を持つご主人の案内で、林道の先にある三浦ダムを見学します。5500万tもの水を堰き止めている巨大なコンクリートの壁に圧倒されます。建設時、ここに5000人を超える人が暮らし、社宅が建ち並び、学校、大浴場、劇場、病院があったと聞いて驚きました。
その旅で、木曽川には33もの水力発電所と、15を越えるダムがあることを知りました。幾つかは、日本の近代化に決定的な役割を果たした実業家、福沢桃介氏が手掛けたものでした。株式投資で財を蓄えた桃介氏は、名古屋で一番有名な水力発電の会社、名古屋電灯(現在の中部電力)の株を買い占め、やがて取締役に選出されます。水量が豊かで落差がある木曽川に着目し、水力発電所を次々と建設していったのです。
ダム、発電所、そして福沢桃介──。
徐々に、それらを繋ぐ「木曽川」というテーマが明確になっていきました。
木曽川は、長野、岐阜、愛知、三重の4県に跨がって流れ、伊勢湾に注ぐ総延長229kmの大河です。2014年春、木曽川水系の発電所を所有する関西電力株式会社から正式な取材の許可が下りると、本格的な旅がはじまりました。ダムや発電所は、木曽電力システムセンターのHさんが案内をしてくれることになりました。
まずは、長野県南西部、鉢盛山南麓にある源流にカメラを向けました。かつて森林鉄道の路線があった山道の先にあったのは小さな取水口。取り込まれた水は、山中に掘られた長い水路を通って麓へと送られていきます。水は沈砂池を流れ、水槽に貯められたのち、水圧鉄管を下って発電所にいっきに流れ込むのです。水の力で水車が勢いよく回転し、発電機が電気を生み出す仕組みです。
ダムや発電所内で目にするすべてのものが新鮮で、建物の扉を開けて中に入る瞬間が好きでした。また、撮影中にこんな出来事もありました。
大井ダムや落合ダムといった巨大ダムの取材日前日に、決まって大雨が降るのです。そのためダム湖の水嵩が増し、迫力ある放水シーンを撮影することができました。最も下流に位置する今渡ダムを訪れたときも、台風の影響で水嵩が増し、すべての水門が開いて水が勢いよく放水されていました。カメラを向けると、突然夕陽が顔を出し、ダムと水が真っ赤に染まります。取材中、よくHさんから言われました。
「吉村さんは何かを持っている人ですね。まるでダムや発電所、そして桃介さんが〈今から最高の姿を見せるから綺麗に撮ってくれよ〉とお願いしているみたいです」
近代化を急ぐ明治時代、東京や名古屋の実業家たちは競って水力発電に活路を求めました。1911年、木曽川最初の発電所が岐阜県八百津に完成します。その後、賤母、大桑、須原、桃山、読書……と次々と発電所、そして大規模なダムが建設され、木曽川が日本屈指の電源地帯となっていったのです。新しい道路やトンネルを一つ造るだけでも激しい反対運動が巻き起こり、政府や民間企業が批判にさらされる今の時代とは大違いです。
しかし、当時のこの勢いある開発があったからこそ、日本を世界屈指の経済大国へと押し上げ、そして、日本一の暴れ川と呼ばれていた木曽川を沈静化することに成功したのも事実です。信じられないような集中豪雨に見舞われても、不思議と木曽川だけは水の被害が起こりにくい。
現代人は、電気に頼る生活を送っています。しかしその電気が、どこでどのように生み出され、運ばれてくるのか、多くの人は知りません。私は、木曽川の取材を通して多くのことを学びました。明治大正時代を駆け抜けた偉人や労働者が生み出した発電所やダムが今でも稼働し、関西地区の電力の一端を担っていること。人里離れた発電所やダムで働き、昼夜安全を見守り続ける人たちがいること。
2017年6月、信濃毎日新聞社から、写真集『RIVER 木曽川×発電所』を出版することが出来ました。ダムや水力発電所を紹介していますが、実は私がこの本で最も伝えたかったことは、木曽川源流の水の美しさです。エメラルドグリーンのピュアな輝きは、今でも脳裏に焼き付いています。
【次号へ続く】